「飛ぶがよい。翼持つ者よ。泳ぐがよい。鰭持つ者よ。翼を持ちながら飛ばぬ者は臆病者なり。鰭を持ちながら泳がぬ者は怠け者なり。立ち止まることはない。命ある限り」
聖書を閉じ、印を切って瞑目し、祈りを捧げる。
「我ら生あるもの。命をつなぐ。記憶に留めん、この世に生を為した者たちを」
アーカンドルの宗教であるハルダイン教のジョージ・ミンジア神父は、秋の夜風にあたりながら誠実に儀式をこなす。サワムー湖の湖上を吹き渡る風は、冬のにおいを感じさせるほどの冷たさであった。まばらな木立の隙間を通り抜け、冷たい風がミンジア神父の黒い髪を揺らす。
今年39歳になるミンジア神父は枢機卿であり、高位聖職者であることを示す緋色の聖職者服を身に纏っていた。
――ワオーン!
もの悲しい遠吠えは狼のそれだ。
ミンジア神父のすぐ横に立つ人物――彼の口から遠吠えが発せられたのだ。
「敵、味方全ての戦士たちよ。刃を収めて休み給え」
呟く影はグレッグだ。黒目黒髪の175センチの青年である。獣人現象をひきおこしていないが、彼は己の体内に潜む狼人間の力を今や完璧にコントロールできるようになっていた。
――ワオーン!
「あんたたちへの憎しみが消えることはない。スコール。ハーディ。だが、な。理由はわからないが、あんたたちがこの世を去ったことははっきりとわかる。そうである以上、あんたたちを知るこの俺が弔ってやるぜ」
それは、望まずして手に入れた力――狼の力と共に生きていくことを決意した、グレッグによる鎮魂歌である。
「神父さん、無理を言ってすみませんでした。結婚式の前に、これだけはどうしても済ませておきたかったんです」
礼儀正しくお辞儀するグレッグに、ミンジア神父は柔らかい笑みを返す。
「区切りをつけることはとても大切なことです。あなたの心がけは立派だ」
「ありがとうございます」
「では、来週の結婚式も、精一杯務めさせていただきますよ」
そう言うと、ミンジア神父は教会へと帰っていった。
秋も終わりにさしかかり、収穫祭を終えたアーカンドルの夜空高く、丸くて蒼い見事な月が輝いている。月は、ひとり佇むグレッグを淡く優しく照らしていた。
グレッグは月を仰ぎ、両手を広げてしばし瞑目した。
やがて彼の身体を白銀の光が包む。それはまるで、グレッグだけを目がけて月から雪が降ってくるような、幻想的な光景であった。
次にグレッグが目を開けた時、彼の身体は白銀の美しい毛並みに覆われた、一頭の完全な狼の姿となっていた。今までの変身のように、顔だけ狼となって人々を威圧する醜怪な魔物ではない。その姿は神々しくも美しい、聖なる獣であった。
意図したわけではない。狼の力を受け入れたグレッグによる心からの鎮魂の儀式が、闇の力を聖なる力へと昇華させたのである。
少し離れた場所から、濃い藍色の光が立ち上る。空中で留まり、滝のように落ちてくるその光は《フォール・エンブレム》――リサの血に含まれる魔石アークルードの力である。
「ああグレッグ。なんてきれいなの……。あまりの美しさに、つい《フォール・エンブレム》を発動しちゃったわ」
木陰から、長い金髪と朱色の目を持つ美しい女性――水の民セレナ族のリサが現れた。
「あのな……」
グレッグにとって、リサの反応は流石に予想外だった。完全な狼の姿に変わっても、もとのグレッグのままの声がその口から漏れる。以前のグレッグは、狼人間に変身した後は人間の言葉を発声するのが不得意だった。
「うふふ」
リサは両膝をつき、グレッグの首筋に縋るような格好で抱きつく。
「狼の姿も美しいけど、式ではずっと人間の姿でいてね。でないとキスしにくいもの」
サワムー湖の畔、グレッグとリサのいる木立から充分離れた場所を散歩していたエマーユは、顔が真っ赤に火照るのをどうすることもできなかった。エマーユは緑の髪と緑の目を持つ森の民エルフ族の少女である。
「ん? どうしたエマーユ。熱でもあんのか?」
彼女の隣を金髪碧眼の青年が歩いていた。アーカンドルの妾腹の王子、キースである。エマーユの熱を調べようとして近づけてくるキースの手を、彼女は自分の両手で包み込んだ。
「うはぁ……。耳がいいのも考えものね」
エルフ族である彼女の耳は、グレッグたちの会話をはっきりと捉えてしまっていたのだ。
ぼそぼそとつぶやくエマーユの声が聞き取りにくかったのか、キースは耳を寄せてくる。
キースの頬に、柔らかな唇が触れる。
「あ……」
エマーユの不意打ちに、今度はキースが顔を赤らめる番だった。
「あのさエマーユ。今さらと思うかもしれないけど、俺にだって心の準び――」
キースには言葉を継ぐことができない。口を塞がれたからだ。
小さく溜息をつき、青年が立ち上がる。青い髪と青い目の長身の青年――風の民グライド族のカールである。
「おいマミナ。あんまり良い趣味とは言えないぜ……。城に戻るぞ」
これじゃ覗きじゃないか。ぶつぶつと独り言を言うカールの背を、小さな光が追いかける。身長30センチの羽の民フェアリー族、マミナが飛んでいるのだ。飛ぶときだけ背中から現れる透明の羽はトンボのそれに似ており、飛んだ軌跡に光の筋を引く。
「目がいいってのも考え物かもね。でも、いいもの見せてもらったわ♪」
マミナは肩までの長さの深紅の髪を風に揺らし、朱色の目を細めてにやにやしている。
「お前、初めっからこうなると知ってて俺を散歩に誘ったのか。マジで趣味悪いぜ……」
「怒んないの。あんた、誰を選ぶの? あんまり放っておくと、みんなあんたから離れちゃうよ」
みんな、と言われたカールの脳裏に3人の少女の顔が浮かぶ。だが、あえてしらを切る。
「何の話だよ。……ってか、お前にお節介されるいわれはないぜ」
「ちぇーっ。冷たいの。一緒にお風呂入った仲じゃない」
マミナとは幼馴染みだが、風呂を共にした経験など全くない。
「そんな覚えはないわっ! 誤解されるようなことを言うなよ!」
カール達の進行方向から複数の女の子の声が上がる。
「ええっ!? カールって……。ロリコンだったのっ!?」
全く同時に声を上げ、それぞれ別の方向に走り去る3人の少女。
「はあっ!?」
一人目はキースの妹、金髪碧眼のファリヤ王女。王女の肩書きを感じさせない、活発で親しみやすい印象の少女だ。
二人目はサーマツ王国からの旅仲間、ローラ。癖のある赤毛をショートにしていて、大きなブラウンの瞳を持つ少女だ。
三人目はエマーユの親友、パーミラ。エマーユ同様緑の髪と目を持つが、やや目尻の下がったおっとりした感じのエルフ族の少女だ。
――さあ、誰を追いかけるのかしら?
マミナはにやにやしている。
「引っかかるかっての。バレバレだぜ、マミナ」
カールは溜息をつき、どこか物憂げに言い捨てる。
「えーっ? 完璧な作戦だと思ったのにぃ」
カールが誰のことを一番気にしているのか試そうとしたマミナだったが、目論見が完全に外れたことを知った秋の夜であった。
翌週、盛大なお祝いと共に、グレッグとリサはめでたく挙式した。
「めでたいんだけどさあ……」
タキシードを窮屈そうに着たカールが、奥歯に物が挟まったように呟く。
「どうした? 兄貴」
こちらは流石に王子、タキシードをそつなく着こなしたキースが発言を促す。
「なんでグレッグたちのファミリーネーム、“セイブ”な訳? それじゃ、まるで俺の兄弟みたいじゃないか」
「ああ、そのことか。オヤジがさ、“苗字があった方が、アーカンドルで人間と一緒に暮らすのに色々と便利だし、丁度、国内の誰ともかぶらない苗字を最近聞いた”からって」
「俺とかぶるのは気にならないわけね」
「兄貴は、本物の俺の兄貴になってくれればいいじゃないか。ファリヤと結婚して、“アーカンドル”を名乗れば――、のわー!」
間近で会話を聞いていたファリヤが、ヒールの踵でキースの足を踏んでいた。
「リサさん、綺麗♪」
などと、うっとりとした声を出しながら。
「それじゃ俺がキースの弟になるじゃないか。ま、それもいいけどな」
「え?」
ファリヤが輝くような笑みと驚きの入り混じった表情をカールに向けた時、カールはすでに背を向けて歩き去っていくところだった。
「ね、ね、お兄様! 今の、カールが言ったの?」
「いたた、足、どけてもらえないだろうか、お姫様」
ようやくファリヤの踵攻撃から解放されたキースは、妹の肩に手を置き申し訳なさそうな顔をして言った。
「あれは社交辞令だ。カール兄貴は、今はまだそっち関係の話を真剣に考えたくはないみたいだな」
カールはチャーリーを失ったのだ。まだ、気持ちの整理がついていないのだ。
「やだ、私。自分のことばかり考えていた……」
キースの胸に顔を埋め、肩を震わす妹に、彼は優しく髪をなでて声を掛けた。
「めでたい席だぜ、お前が泣くなよ。兄貴なら大丈夫さ、すぐに以前の兄貴に戻る。俺が保証する」
肩を落ち着かせ、笑顔を作って見上げてくる妹に、キースは今度は人差し指を立て、真面目くさった顔で告げる。
「ひとつ忠告しておこう。兄貴のようなタイプは、な。ガンガン積極的に攻めてくる娘が気になってしょうがないはずさ。幸い、お前のライバルたちはどっちもあんな感じだからな。チャンスは充分に――」
「あのさ。あたしもどっちかというと似たようなタイプなんですけど」
キースは固まった。
「こりゃあ、兄貴、大変だぜ。決めんのに結構時間かかるかもな――うぎー!」
声に出すべきではなかった。キースは再び妹の踵攻撃を受けてしまった。
足が痛いけど、妹が元気になってよかったと思うキースであった。
「うりうりぃ♪」
兄の足を踏みながら、ファリヤは今や大の仲良しとなったローラとパーミラに思いを馳せる。
カールが自分以外のどちらを選んでも、自分はきっと心から祝福してしまうだろう。逆に、もしカールが自分を選んでくれたとしたら、自分は心から喜ぶことができるのだろうか。いやそもそも、カールは自分たち三人の中から誰かを選んでくれるのだろうか。
「ばーか。何も始まらないうちから心配したってしょうがないぜ。それに、こういうことは自分の気持ちを一番に考えればいいのさ」
見透かしたようにおでこをつついてくるキースに対し、ファリヤは一瞬睨む視線を返したが、少し俯くと無言で頷いた。
披露宴はつつがなく終了し、外は夜。
蒼い月が、ラージアン大陸全土に淡く優しい光を降り注いでいる。
〜「蒼き月夜に降る光」 完〜